外相整いて内相おのずから熟する

仏教の教えに「外相整いて内相おのずから熟する」という言葉がある。外の形をよくすれば、自然に内心もそれにふさわしくなるという意味だ。仏前に座って両手を合わせれば、おのずから敬虔な気持ちになる。神経症の人は頭でっかちの人が多い。ああでもないこうでもないと考えてばかりで、実行しない。行動を始めれば、気分もおのずと変わってくるものだ。

ありふれたことにとらわれる

私たちの心身はいつも一定不変の調子を保っているものではなく、内外の雑多な影響を受けて常に変化流動している。何となく体がだるかったり、気分が引き立たないこともあり、しかもその理由もはっきりしないこともある。私たちはたびたびこんなことを経験しているので、たいていは今にまた変わるだろうぐらいであっさり片づけている。実際、自然の成り行きに任せておけば変ってゆくので、それで差支えないわけである。ところが、何か心に不安を持っているとき、ふつう平凡な出来事も、それがただ事でなくなる。

 症状の発生する動機は、別に重大なことでもない平凡ごとにすぎないのであるが、神経症の人はこの何でもないことを自分に特別な何か異常のことのように受け取って、それからいろんなからくりを作って症状化させてしまうのである。

内向と外向

キャッチボールの時、ボールを見ていれば、手足は自然にボールを取りやすいように動くが、自分の手つきに注意を向けていると捕りそこなってしまう。このように、私たちが何か行動するとき、体は無意識のうちに、すべての過程が目的にかなうように調節されていく。当面の目的に乗り切っていく態度が、外向的、即物的であり、それが外界によく順応していくやり方である。ところが、神経症の人は、その当面の目的に乗り切らないで、途中のこと、準備のこと、そのほか二次的な条件に重点を置きすぎて、それらを整備することが主目的になり、肝心の本来の目的が留守になってしまう。

完全欲

私たちの心身のコンディションは、内外の条件によって常に変化動揺して好かったり悪かったりするものだ。ところが、神経症の人は完全欲が強く、「気分はいつもさわやかであるべきだ」と決めてかかっているので、理想と現実との矛盾に悩まされる。これは「お天気はいつも晴れているべきだ」と無理な注文をしているのと同じだ。

注意の固着

神経質症状が注意の固着から起こると説明されると、患者は病気のことを思ってはいけないと考える。ところが、注意してはいけないと思うことが、注意することに他ならないのである。気になることは気になるままに、当面の仕事に没入することで注意はおのずから転換される。

自己暗示

私たちは気分によって判断が変わる。誰かに好意を持っていれば、あばたもえくぼに見える。釣り落とした魚は実際より大きく思える。神経症の人は不安な気持ちから、自分の症状を実際より重大視して過大に見てしまうのだ。

あるがまま

「あるがまま」が体現できれば、森田療法は卒業といっていい。「あるがまま」の第一の要点は、症状やそれに伴う不安を素直に認めることだ。否定したり、抵抗したり、回避しないで、そのまま受け入れることだ。第二の要点は、自分が本来持っている性の欲望に沿って、建設的に行動することである。

精神交互作用

私たちの感覚は、そこに注意を向けると鋭く感じられるし、ほかのことに関心が向いていると、多少のことは感じない。たとえば、柱時計の音は普段気に留めていないので聞こえないのと同じだが、ふと注意を向けだすとうるさいくらいはっきり聞こえてくる。体の症状についても同様のことが言える。不眠、頭重、頭痛、疲労感・・・。健康な人は、こういうことがあっても、気にしないので、いつの間にか症状は消えてしまう。しかし、神経質な人は、こういう症状に注意を向けるので、そのために一層症状を強く感じる。そうすると、ますますそこに注意を向け、症状が強くなる。このような注意と感覚・症状との精神交互作用から神経症状は発展、固定していく。

差別感のとらわれ

神経症の人は自分ほど苦しいものはない、こんな症状を持っているものは他にあるまいと思い込んでいる。人は平気で大勢の人の前で話をするが、自分はあがってしまう。人はいつも楽しそうにしているが、自分はふさぎやすい・・・。人間性の真実を知っている人は、自分にあることは多かれ少なかれ、人にもあるという事実を知っている。

自己防衛

すべての生物には、外敵から身を守るという自己防衛の本能がある。自然災害、病気、人間関係、経済問題・・・私たちの身の回りには、自身で防衛しなければならない外敵が無数にある。だからといって、消極的な自己防衛だけに専念すれば、身動きができなくなってしまう。